ヒコー少年のひとり言
「ご挨拶」
記念すべき70周年おめでとうございます。関係者の皆様の多大なるご尽力に感謝いたします。
「近況」
私は学連在籍が丸2年という短期間でH22にしか搭乗していませんでしたが、その後、生涯を通じて空を飛ぶ基礎になりました。
現在でもチャンスをみては英国、米国、豪州等でグライダーを始め陸上機、水上機等でフライトを楽しんでいます。
「飛ぶことの原点」
大学1年生になったばかりの1967年の春、読売学生航空連盟という存在を知り二子玉川飛行場でグライダーの飛行訓練を受け始めたのが私の「飛ぶことの原点」になりました。
「想い出の数々」
・はじまり
当時、飛行機大好き少年は世界中に山といたが実際に空を飛ぶことは正に高根の花だった。私もそれら少年達の一人だったが小学校3年生の時に「飛行機で飛びたい」と無理難題を父親にふっかけ、何か知らんが父の伝手で調布飛行場で飛ぶチャンスを得た。そこは帝都防衛の任を担っていた陸軍三式戦闘機「飛燕」の基地であったと聞いた。私が乗った飛行機はセスナ172型でその右前席に乗り空に舞い上がった。完成には近かったものの建設中であった東京タワーを中心に旋回して丹沢山、筑波山を遙かに望み・・・これこそが私の夢の世界だと感じた。
それから小中高と空飛ぶ熱い夢を持ち続け大学生になった。そして上述の通り1967年の春に読売学生航空連盟に入会した。
・二子玉川飛行場へ
町田駅(当時は新原町田といった)から小田急線で成城学園駅まで行き、そこで二子玉川行きのバスに乗り換えて飛行場前で下車すると土手の向こうに格納庫が見えた。全身の勇気を振り絞ってピストに恐る恐る近寄ってみると精悍な佇まいの佐藤一郎教官ともう一人背格好が似た坂本教官が一緒におられた。その前をグライダーが1機離陸していった。何と言葉を発してよいか分からず「飛びたいのですが・・・」と一言。何と言おうか緊張の余り後のやりとりは覚えていないが、とにかく飛べることになった。
・初飛行
後に空自のF-4ファントムII戦闘機のパイロットになった天馬こと痩身の内田さんが後席に、私は前席に着座した。ストラットと張線が特徴の萩原式H22型というセコンダリーだった。その機体に5.5ミリ径の曳航鉄索をフックし600メートル先の滑走路端に設置されたウインチが勢いよく引っ張ってH22は私と夢を乗せて地上を離れどんどん上昇。700フィートで離脱してその後は“ボーッ”と風切音だけが聞こえる静寂の中を10分間ほど飛んだ。操縦桿からもフットバーからも後席で操縦する内田さんの動作が伝わってきた。「まさにこの感覚だ!」早く自分も操縦できるようになりたいと思った。
当時、学連にはH22というセコンダリーが2機、それにH23AとH32というスマートなソアラーが1機ずつあったが、私はそれらソアラーには惜しくも乗っていない。
・その後のフライトの数々
その1:大学卒業と同時に民間航空会社の自社養成パイロット訓練生になって英国で飛び始めた。学連で多少なりともグライダーに乗っていたからだろうかファーストソロに出たのは早く、飛行訓練が始まってから8時間10分の時だった。事業用操縦士課程で有視界飛行、計器飛行、夜間飛行、エアロバティックなどで陸単、双発で200時間を飛んだ。結局プロパイロットにはなれなかったが「空」で知り合った人々とは国の内外を問わず一生涯を通じてかけがえのない友人となって74歳になった今でもそれは続いている。このコロナ禍で3年ほど英国、米国、豪州への渡航を控えているがコロナ禍が明けたらまた飛びに行こうと思っている。
その2:その後勤めた会社での出張時、米国サクラメントではシュワイツアーSGS2-32というオール金属製の大型ソアラーで高く高く飛翔した。その時の風切音は“ボー“ではなく”キーン“と高周波の飛翔音だった。
その3:昨年2020年1月に関宿滑空場ではかつて学連の委員長だった須賀さんが声を掛けてくれ関宿飛行場でASK13複座グライダー(佐藤一郎さんがレストアしたコウノトリ号)に同乗させていただいた。寒風荒ぶ江戸川の河川敷の滑走路は前年の大雨で冠水して泥濘となっていた。黄色いパイパーのトーイング機に引っ張られて離陸、2000フィートで曳航索を切り離してソアリングをした。学生時代にグライダーパイロットだった兄とH23Cで飛んだ宝珠花の滑走路が行く手眼下に見えた。両親、特に母親からは兄弟2人で一緒に搭乗するのは止めてくれと言われていたのだが・・・親の心、ヒコーキ野郎は知る由もなし。
その4:退職後、訓練生時代の先輩の持つ単発機で豪州のブリスベンから遙々カウラ飛行場に飛んだ。途中にグライダーの記録会のメッカであるナローマイン飛行場に給油のために着陸した。飛行場隣接のクラブハウスに投宿し、翌朝カウラに向け離陸した。そのクラブハウスで記録挑戦に来たという2人の日本人グライダーパイロットと出会った。そこには外国では未だ珍しい日本製のウオッシュレットのついたトイレがあった。宿主に聞くと日本人パイロット達が寄贈してくれたモノだという。
その5:2021年にはSAFMGクラブ員の宮下利之さんの紹介で大利根飛行場(中沢愛一郎さんが代表をされているJMGCの本拠地)でモーターグライダーに搭乗し場周飛行をした。ベースレッグからファイナルに入ったところでエンジンを切ったが滑空比が良く滑走路にスムースにランディングした。
その6:今年3月にはコロナ禍で海外渡航もままならず再び「ループ」とか「ロール」とかで飛びたくてアクロバット飛行可能な日本では数少ないA類機であるFA-200エアロスバルがある熊本空港に行って天草湾上空の飛行空域で思いを叶えてきた。
「空と素晴らしき空の仲間達」
「航空」という世界共通語でこれまでにどんなに多くの人たちと接点を持てたことか・・・と思い巡らす今日この頃です。例えばサイマル社出版の「空とイギリス人」という著書があります。副題にあるように「ヒコーキ野郎たちを通して描くイギリス人の人生の楽しみかた」が紹介されています。その著者の方と知遇を得たのも「航空」というキーワードによってでした。
私の場合、いつでもどこでも人と知り合う時には「航空」という共通語が直ぐにその間を身近なものにしてくれました。そして長く強い友情で結ばれています。これらのこと全ての源は読売学生航空連盟でのグライダー飛行訓練でのあの一歩があってのことです。故に私は二子玉川飛行場に足を向けて寝られません。
桜井 邦夫