グライダーと私
打林 亨
物心が着いて以来空に対する憧れ
幼き頃、アデノイド除去手術が必要となり、病院に連れて行かれる時最後の最後に私が出した条件が「飛行機の模型を買ってくれるなら手術を受ける」と言って母親を驚かせた、と折りあるごとに聞かされた。
国民学校に入学前の頃、よく母を説得して成増(現在の和光市にあった)首都防空飛行場に連れて行って貰い、半日以上ネット越しに離着陸する飛行機を見ていた。(高田馬場から池袋経由西武線に乗り換え1 0分程で成増駅に着き、家からは4 0分程で着く至近距離に飛行場があった)。
グライダーと偶然な初対面
長じて高校に進み世田谷区桜町にある学校へ入学する、入学式の日、母に伴われ家を出る。(自宅:新宿区矢来町からバスで新宿駅西口経由JRで渋谷駅下車、バスで等々力行きに乗り〈国道2 4 6号〉駒沢で左折し等々力に向う)。
渋谷を出て三軒茶屋を過ぎた頃、街の景色を見るとはなしに外を見ていた私の乗るバスを追い越した、その大型トラックの過ぎて行く荷台に、何とグライダーの翼が積まれているのを瞬時に見る、しかも翼下面に全日本学生航空連盟と記入されているのが読み取れた、私の心中は経験した事が無い興奮状態になっていた。
取敢えず母を促し次のバス停は“駒沢”で下車する、2 4 6 号はその儘直進すれば“瀬田”を通り下って二子玉川に出る、その向うは神奈川県になる、バスを降りてタクシーを拾いトラックを追うが既に視界には無い、詰問する母に「兎も角暫く僕の言う事を聞いて」と懇願し強引に同道して貰う。
母にすれば入学式に参加するので来たのに突然その息子が不可解な行動を起こし入学式にも参列出来そうも無く成ったのだから驚くのも無理は無い。
しかし、私はあのグライダーを積んだトラックの行き先を知るのが運命だと感じ突発的にこの行動になったのだった。
それまでの私は消極的性格で目立たない子供だった、そんな寡黙な子供が突然強硬に自分を主張したのだから母も随分と驚いたと思う。
瀬田の交差点を過ぎ長い下り道になり、下り切った所が二子玉川になる、“何か感ずる物があり”ここでタクシーを降りる、左側に東急玉電駅2 4 6号線は直進すれば橋を渡って溝口に至る。
私は取敢えず母を促して“グライダーの行き先を突き止めたら高校の入学式に参加することを約す”そして何処か適当な所で聞き込みを試みる。
何軒かの後、右手角のタバコ屋さんで娘さんに「先刻ここをグライダーを積んだトラックが通りませんでしたか?」と聞くと、「トラックは見ていませんが、トラックは多分読売の飛行場へ行ったものと思うから行って見たら」と言う、驚きつつ行き道を教えて貰う。
右手を玉川の手前に沿った道があり道路とは背丈程の塀で仕切られている、500mも行けば塀に切れ目があり小川が流れ(玉川の支流)橋が架かっている、そこが読売新聞社玉川飛行場だった。
橋を渡り土手に出る、左手に飛行場の看板が縦書きで立ち二階建ての事務所があった、右手には広いランプがあり奥に接して格納庫が建つ、ランプ左手は土手が続き土手の切れ目50m程が飛行機を滑走路に誘導する為に開かれていた、誘導路を通り河川敷内の滑走路は川と並行に約500mある。早速、事務所に伺うが不在であった、しかし格納庫前には相当数の人が何かを待つように雑談している、一番優しそうな人を選び声を掛ける、白いツナギを着たメカニックらしい人「すいません、一寸お伺いしても良いですか?」「ハイ・ハイ何が聞きたいですか」「街でグライダーを積んだトラックを見掛け、後を追いかけて来たのですが、途中で見失い此方と関係があるかと来たのですが、此処にはグライダーが無いので此方では無かったかとガッカリしていました」「坊や、それなら君の感は間違っていないよ、グライダーを積んだトラックは此処に来ているが、そこの橋は古く重量ある車両は通れないので遠周りをしてもう直ぐ着くよ」。
間も無くグライダーを積んだトラックが到着、居た人々が周りを囲み、指揮する人の指示によりテキパキとグライダーをランプ上に並べて行く、積荷が全部降ろされて即休む間もなく組み立てが始まる、熟練された人達と見え30分程後には組み立ては終了した。
私は先程の優しい人に聞く「翼に全日本学生航空連盟と記されているが学生なら入会できますか?」「坊や、私は部外者だから分からないので分かる人を紹介して上げよう」と言って、先ほどから指揮を取っていた大きな体の方に何か言いその方が私の所に来て下さる、「坊や、グライダーが好きらしいね、渡辺さんから君が熱心なのを聞いたよ、グライダーに乗りたいかい、もし、熱心にグライダーをやりたいなら丁度今日は記念すべき日なので入会の機会をあげよう、詳細はあの人に聞きなさい」と言ってその人を呼んでくれる。
その人は佐場教官であった、簡単なグライダーの知識を説明して下さり「今日、丁度お母さんが一緒で良かったね、入会書もここでお母さんの同意書を貰ったから、君は今日から会員だぞ」と頭を撫ぜてくれる。
何とも言えない今までに経験した事のない興奮に包まれる、此処に至り母も祝ってくれ正式に全日本学生航空連盟の会員になったのだ。
先の親切なおじさんは何とここ読売新聞機報部(航空部)所属の機関士(航空機整備士)で格納庫の裏に建つ住居に住まわれて居られた、当時渡辺さんは当航空基地の管理をされ豊富な航空整備の知識で後輩の整備士達から慕われて居られた、趣味でハーレー・ダビットソンの側車付をお持ちで大事に手入れされていた。(大変貴重な車)
又、最初に会って下さった責任者の方は連盟の山乃内理事長であった、後でそれを知り冷や汗をかいたのを覚えている。
全くの偶然から私のグライダー人生はここから始まった、それまでは漠然と空に対する憧れだったものが一挙に“グライダー”という具体的な形で目の前に現れたのだ、もう熱病に罹って仕舞ったのだ。
その日午後から高校へ行くが勿論入学式は終了しており、担当教師に挨拶し教科書等を受け取る、予め母が事情を説明してあったらしく、担当教師から注意を受け頭を一つ“コズカレ”て入学は許された。
私がグライダーと出会ったのは以上の如く劇的な偶然からスタートした。
それからの生活は総てグライダー中心で進んだ、何年かの生活は土・日・休日等総ては玉川飛行場で過していた、操縦の方も人並みに上達して、プライマリーを卒業しセカンダリーへとステップ・アップしH-22では助教を勤め、後輩の訓練の一助を担って一日数十回もフライトしていた。
学生時代の忘れ難い思い出に
- 軽井沢合宿
部員の中に西武コンツェルン長男Y・Tが在席しており、長期合宿が実現できた、今の7 2カントリー・クラブがある場所に600m程のストリップがありそこを使用した、宿舎は小高い山の上にあった旧ホテルが使用され殆どが朽ち果てる寸前の状態であったが、西武さんのご好意により部分的に修復して使用出来るようにしてくれた、炊事の支度も地元夫人が交代で用意してくれた。合宿訓練中、天皇ご夫妻と皇太子(昭和天皇が皇太子時代)がご来訪される。
2. 戦後第一回滑空機競技大会の開催
航空記念日9月20日に読売新聞玉川飛行場で行われた、文部省主催・読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・(財)日本航空協会協賛で開催される。
競技委員長に九大の佐藤博先生、私は尊敬する先生に直接お会いでき感激した(佐藤博先生は競技の出来ない強風日に土手の上に参加者を集めグライダーに関するお話しをして下さる、ドイツ国のグライダー留学の話し、ヴォルト・ヒルト博士のこと、バッサ・クッペのこと等尽きぬお話に感動の連続であった。(風よ吹け吹けの心境) 後日談:数十年後、佐藤博先生と九州の先生ご自宅で再開を果たす。
競技会の成績は幸運に私も中級機の部で入賞できた。
3. 高校生で自家用操縦士技能証明書を取得。
同級の友人鈴木常正さんと一緒に航空免状取得に合格。実地試験は航空局金井試験官であった。
私の青春時代はグライダーと7人の友人に恵まれ満足したものであった。あれほどグライダー中心であった生活も、実社会に出て大きく変化する、家庭を持てば尚大きな責任が生じて無我夢中で毎日を送る。
気が付けば十数年が経っていた、その頃私は兄の友人が経営する会社で貿易の仕事をしていた、内容はヨーロッパ特にドイツからの輸入であり、商材は食品が主でダイエット・フード、チョコレート、ジャム等であったが、禁止品 (IQ品)の内ビール・肉製品は農林省と交渉中で近々許可が下りる段階に来ていた。
販売元はデパート大手Ⅿ・I等でバイヤーとも最終交渉に漕ぎ着けていた。会社の事務所は港区溜池にあり、溜池交差点近くの首相官邸下の溜池ビル内にあった。
運命の出会い!!
そんなある日、何時ものルーティンで正午少し前、一人昼食を摂りに事務所を出て交差点を渡り食事処が並ぶ道に入りかけた時、前を歩く人混みの中に気になる人を発見する、佐藤一郎さんではないか? しかし、私の知る限り彼は日本航空協会に勤めている筈で、事務所は田村町一丁目でこの辺では会う可能性は低い、私の早トチリか他人の空見だろうと否定しながら近ずくと、やはり。“佐藤さん”だと私は叫んでいた。
驚いた顔の佐藤さん、間違いなく佐藤さんであった、取敢えず佐藤さんと一緒に居た人は雰囲気から察して挨拶をして別れる。
近くの馴染みの中華店に入る、店員に趣旨を説明し離れたテーブルに座る。
佐藤さんによると、この辺で食事をしようと思ったのは、事務所があった旧飛行会館(戦前からあった古い建物)は老朽化が激しく危険と指摘を受けリニュアルが決まる、そして先月から部署ごとにそれぞれ仮事務所を借り分散して仕事をしていて、佐藤さんのスポーツ航空室は溜池近くに事務所を借りて移って来たとのことであった。
私 「随分久し振りだけど何年振りに成りますかね、約15、6年にも成りなすかね、所で佐藤さん 何故此処で会えたのですか、事務所は田村町ですよね」
佐藤さん「事務所のあった旧飛行館は老朽化が酷く建て直すことが決まり、各セクション別に仮事務所を決め移動する、自分の所属するスポーツ航空室は、ここ溜池の仮事務所となり今日も昼食を摂るため外に出た所だったのです」とのことであった。
何はともあれ、この偶然の出会いを神に感謝し、積る話に時間が過ぎる。
佐藤さん「打さん、今仕事は何をしているの」
私 「私は其処のTビル7階にあるR社に勤めており、貿易部に所属しています」
佐藤さん「私はグライダー・メーカーを経て、現在は(財団法人)日本航空協会・スポーツ航空室に所続し、スポーツ航空の普及に努め、千葉県野田市の江戸川河川敷に滑空場を造っている」
私 「遠くから佐藤さんの噂は聞えて来ていて、協会で活躍して居るのを伝え聞いておりました」
佐藤さん「打さん、貿易の内容を支障がなければ聞かせてくれる」
私 「勿論、支障などはありません、私の担当はドイツ・ヨーロッパからの食品、例えばビール・肉加工品(ハム・ソーセージ等)チョコレート・ジャム・ダイエット食品等総てです」
佐藤さん「それではドイツに行く機会があるでしょう」
私 「当社にはデュッセルドルフ市(Dusseldorf)に支店があり駐在員も7人居りますが、食品専門家が居ないのでその都度出張しています」
佐藤さん「打さん、ドイツはグライダー先進国なのは知って居るよねー、現在グライダー製造ではドイツに対抗できる国は少なく9 0 %ドイツ製と成っている、勿論、製造だけでなくグライダー全般の理論・研究も総てドイツの後塵を拝している、打さん、ドイツでグライダーを見たことあった」
佐藤さんのこの質問にはバットで殴られた以上の大衝撃を受ける。今日まで数十年脇目も振らず目の前ばかり見て生活をして来てしまったが、佐藤さんの一言で数十年間の空白が一挙に埋まり、あの青春時代にグライダーに総ての情熱を注いだ日々を瞬時に思い出し、何とも云えない焦燥感に陥った。
佐藤さん「打さん、次回ドイツに行く機会が出来たら是非グライダー事情を調べて見てよ」
私 「勿論、調べて来ます」
佐藤さん「日本のグライダー事情を少々話すと、確かに最新の機材(FRP機)が輸入されているが、年間1~2機程度で日本全体のレベル・アップには程遠く、打さんの現役時代と大して変わらない」
私は、もう心がドイツに飛んで仕舞って居り、佐藤さんと話した1時間程の時間は夢の様に過ぎ去って居た。「次回ドイツ出張が決まったら佐藤さんに連絡してグライダー界の調査内容を相談させて貰います」
今回、此処で偶然再会出来た事に感謝し再会を約し佐藤さんと別れる。
“神様のお導き”としか考えようがない。!!
以外とドイツ行きは直ぐに来た、大手Iデパートと進めていた(世界ビール祭り)の祭事が具体化する、私の担当はヨーロッパ・特にドイツ地区のビール会社に協力を貰い、1メーカー100ケース以上の出品を約する仕事であった。(ドイツには大小数千のビール醸造会社があるが貿易に適した会社は数百社しか無い)
早速、佐藤さんに連絡し来週の訪独を告げる、そして最小限の調査事項の指示を頂く。
次の週、デパート・バイヤー同道で日本を立ちパリ経由テュッセルドルフ着、バイヤー達をホテルに案内し、私は迎えの当社事務員と事務所に行く、支店長にビール祭りの趣旨を説明し、私は別の仕事で単独行動である旨説明して社有車一台借りる。
私は次の日から先ずは400km弱のステュットガルト(Stuttgart〉を越え、その先50kmキルヒハイム・テック(Kirchheim・Teck〉でアウト・バーンを降り、465 号線を南に約10kmにグラスフリューゲル(Glassflugel) 社があり行くが、CEOは訪米中であり社員の話では「会社は既に解散し、ほとんどシェンプ・ヒルト社に引き継がれた」とのことであった、工場にはスタンダード・リべレ二機、ケストレル機等が顧客に引き渡し状態で置かれていた、具体的な話しは出来ないと判断し次ぎに向う。
465号線を引き返しアウト・バーンを括り抜けキルヒハイム・テックへ向うが午後6時を過ぎてしまい、訪問先は閉まっていると判断し近くのゴッピンゲン(Goppingen) に宿を取る、当地は超小型鉄道模型製造会社メルクリン社の工場があり栄華を誇っていたが、世界中に競争相手が出現し現在は見る影もない、しかもトルコ系労働者が街を闊歩し治安が悪くタ方には人影もまばらに成るらしい。
辛うじて煌々と灯を点すビャーホールを発見し内に入る此処は別世界ドイツがあった、カウンター越しに恰幅の良い叔父さんに“部屋空いてるかね”と聞く、私に“日本人か”と聞く、“そうだ日本人だ”とパスポートを示す“OK・OK”と云い“朝飯付きDM30・夜飯は別”という、直ぐに DM30を払い鍵を受け取り2階に上がる(日本流で言えば2階だがドイツでは1階と言う)、シャワーを浴びて少し休憩して下に降りる、先程の親爺さんが愛想よく座席を案内してくれる、注文は“アイスパインとザワークラウト、スパーゲル・ズッペ”アルコール無しには親爺が驚いていた。
翌日、6時起床・朝食は7時に摂り7時半にはチェック・アウトし10分程の行程でシェンプ・ヒルト社(Shempp Hirth Flugzeugbau GmbH)に行く。
何と私は浮かれ高ぶって今日が土曜日で休日であるのをすっかり忘れており、シェンプ社は門を閉じて人影も無かった。
我に返りそれでは当地にハーン・ワイデ(Hahnn-Wide) グライダー場がアウト・バーン西に面してあることを聞いて居たので行ってみる、昨日グラスフリューゲル社に行った同じ道を1kmも行くと左にグライダー場入り口の表札が出ていた、左折500mも行くと突き当たり右折、畑の中を行くと突き当たりに格納庫らしいものがある、手前には駐車場があり相当数の車が留めてある。
格納庫の先は右から左に滑走帯が伸び、聞くと2000m程あるそうだ、滑走帯左右には草地が広く広がり、グライダー場として安全を保っているそうだ、アウト・バーン側から反対方向に向って傾斜があり可也の勾配に見えた、格納庫に沿って腰の高さの塀があり滑走帯には入れない様に成っていた、目の前を複座で翼の長い格好良いグライダーが人に押されてスタート点に運ばれて行く。(後で聞くとャーナスと言う高性能機とのことでシェンプ社製であった、(因みにシェンプ社はここをグライダーのテスト場として使用しているらしい)。
この日このグライダー場には40機程のグライダーが居たがスタートすると皆んな何処かへ飛んで行って終うので数は数えられなかった、又、午後になると何処ともなく違うグライダーが着陸して来て、直ぐに又曳航されて飛び去る繰り返しで一日中賑わっていた。
上空を見ると南方向の山の上に見える教会の尖塔と思われる上空を数十機のグライダーが旋回上昇し、何処とは知れず飛び去って行く、親しくなった人に聞くと彼もグライダー・マンで今日はテスト・フライトで近隣100km程の範囲を飛ぶんだそうだ、機体はGFKのSTDシーラスと言う傑作機だそうで、しかし、もう既に次の新鋭機が出て競技会では苦戦中だそうだ、彼にここ以外のグライダー場を教えて貰い別れる。
此処から20~30km離れた所にホルンベルグ(Hornberg Segelflugschule)があると聞き行くことにした。
昨日宿泊したゴッピンゲンの街を通り抜け10号線から 466号線に変えラウターシュタイン(Rauterstein)で左折田舎道を5kmでホルンベルグ・グライダー学校に着く、今日学校は休みで近隣のグライダー・マンが集まり学校前の谷間の斜面上昇風を利用したフライトを楽しんでいた、残念ながら学校関係者は不在のため聞き込みは出来なかった、しかし、 ここだけでも30機以上のグライダーがフライトしていた。
今回のドライプで常に上空に注意を払っていたらグライダーが飛んで居ない空間は殆ど無い位ドイツ中の空をグライダーが飛んでいる、と言っても過言で無いことを知った。
後は私がこのドイツからグライダーを輸入するために必要な事項を確認して可能か不可能かを判断することになる。
今日まで日本へグライダーを輸入していた会社も無くなった訳ではなく、今まで通り業務を続けている訳で、代理店制度もあると確認した。
あとは帰国して佐藤さんに報告し、私がこの難関を如何に解決するかの方法と熱意を説明し、グライダー・ビジネスを開始したい由伝える決心をする。
二日間の休日を数十年分のグライダー三昧を楽しみ(と言っても見るだけ)本来のビジネスの為、デュッセルドルフに戻り。ビール祭り"の準備を確認する、此方も順調に進んで居た。
私は訪独の第一目的が達成したので一時も早く帰国して佐藤さんにお会いしたく帰国する。
帰国翌日、早速佐藤さんにお会いする。
1.最大の問題グライダー製造会社の代理店制度。
日本の代理店契約は概ね既存事実は存在する、しかし総ての製造者は結果に満足していない、と言うよりも既に無視している、と言う方が当たっており、具体的な方法には至らなかったが方法はある、と判断したことを説明。
〈一社一社直接訪問して必ず当方の注文を実現する〉
2.グライダー製品の品質・納期・必要書類の提出。
製造者は例外なく協力的で総ての関係者がグライダーマンで仲間意識を感じる。
品質はドイツ人独特の感性で疑う余地も無い、納期も同様信頼できる、新型式機についての提出書類も輸出が多数を占めるため常識化しているので問題なさそう、又、輸出関係の無国籍証明書等も手馴れているので問題は無いと判断した。
あとは工場での梱包・荷積み込み・港までの輸送・通関手続き・船積み・海上輸送等、又、日本での荷降ろし通関・国内指定場所までの輸送。
上記予測される問題点につき説明し、解決策も説明させて戴く。又、国内問題として
1.輸入機の荷降し場所・格納庫・耐空検査準備場所・耐空検査実施滑空場等重要であった。
佐藤さんから貴重かつ重要なアドバイスを頂き、私の決心は決定し、あとは所属する会社のR社K社長に許可を頂くことになる。
R社ではそれまで私を影で支えてくれていた総務部長の Sさんに話をすると、「それはよかった、社長には私が話して置くから暫く指示するまで待つように」と言ってくれる。
翌日、朝一番で総務室に呼ばれ、「打さん、社長が賛成してくれたよ、受け皿会社は。九州R社を打さんに譲渡するから社長以下役員を変更させ打さんの会社にするように。とのことだったよ、よかったなー打さん」と言われ「書類関係は総務部で総てやるから必要に応じ印鑑等を用意するように」とS部長から伝えられ感激であった。
これで私の決断は私一人の出来事でなく、大きく周りも巻き込みスタートすることになる。
事務所もその儘使用して良い、当分社員も貿易部から借りることとさせて頂いた。
私の本音は最初会社の貿易部の延長で食品とグライダー輸入を並行して行う積りであったが、T副社長は、「独立し方が力が入る」と申され決定した。
佐藤さんに経過報告をし、私自身の覚悟も含め説明させて頂く。
愈々、ティク・オフ! !
早速、受注行動に移る、最初の具体的な問い合わせは知人を通じてK県航空協会から入り早速会長にお会いする。 N会長からの問い合わせはシャイベ式SF25Cモーターグライダーであった。
シャイベ社は既に日本に代理店が存在し該当機も数機輸入されていた、しかし価格設定は独占して居るので商社の言い値で買うしかなく、決して安くは無いと思われて居た。 N会長の契約条件は単純でSF25C (装備品も同一)の新機を日本の耐空証明書付き関宿滑空場渡しの価格を出す様に依頼される。
私は早速訪独しシャイベ社に向う、フランクフルト(Frankfurt)経由ミュンヘン(Munchen)近郊ダッハウ(Dachau) へ、全くの住宅地に建つシャイベ社に驚く、旧態然とした工場に二度驚く、訪問し事務員に“シャイベ社長に面会をしたい”由伝えるが、秘書が出て来て「社長は現在ミュンヘン大学で講義中」と言う、懸命に交渉するが言葉は通じず“変な東洋人が大きな声で捲くし立てる”とでも思ったらしく秘書は雲隠れ、1時間も待つが帰って来ない、仕方なく“工場でも見せてくれ”と頼むが取り合ってくれない、困り果てていた時事務所に一人の男が入って来た、姿を見れば長髪に長く伸ばした髭、正にキリスト像にそっくりの風体、長身にツナギを纏った男が英語で「何かお役に立ちますか?」と聞いてくれる。
私は訪問した用件を手短に説明し、「日本には既に販売契約会社があることは承知しているが、敢えて私に貴社グライダーを販売させて欲しい、私は自身グライダー・パイロットであり、日本の航空スポーツを発展させたい熱意があり協力者も多数いる、残念ながら日本のグライダー・スポーツは決して盛んでは無い、しかし、近い将来には必ず発展する、それには優秀な機材が適切な価格と期間で入手できれば可能性が上がる、その一助を私が担当したい」と熱心に訴えた
聞いてくれた彼はガッド(Gad)と言いシャイベ博士の娘婿であった。
その彼が「分かりました、我々も現在の状態に満足していた訳ではありませんが、日本の商社は日本グライダー・マーケットは非常に小さく、フライト場所も制限が多いので機材も売れない、とばかり言い訳して来ました、貴方と話して貴方の空に対する熱意に打たれ、何か可能性があるか考えてみます、少し時間を下さい2日程で結論を出して貴方に連絡しますのでホテルを取って電話番号を秘書に知らせておいて下さい、必ず連絡します」と言って秘書に指示し工場へ降りて行った。
私は可能性が出来たこと、彼と会えたことを神に感謝しダッハウ市を出てアウト・バーンE52に乗りミュンヘン市へ、バイエルン州、州都は流石に大都市、ビール会社が多数あり前にもよく来た街だ、ミュンヘン駅近くのドライ・レーベ(Drei-Lowe)3匹のライオンに宿を取り、早速、シャイベ社にTelし宿のTel番号を知れせる。
久し振りに一人でマリエン・プラッツ(MarienPlatz)からホフプロイ・ハウス(Hobrauhaus)まで散策してハウス前にある三越で寿司夕食を食べる。
翌日、早速シャイベ社秘書からTelあり“本日午前中に来社されたし”とのことであった。
朝食も早々にホテルをチェック・アウトし市内から、アウト・バーンE52にのり30分程でダッハウ市シャイベ社着、 2階事務所に案内される、今日はシャイベ博士在席でガッド氏の隣に如何にも気難しそうな老人が居た、早ロのドイツ語で短く話すと部屋を出て行った、取り付く暇もなしだったがガッド氏日く「私に任せる」とのことで「貴方の申しでには協力する」と言う。
「契約の内容は代理店契約には抵触しない方法を考えるので任せて欲しい」と言い機体そのものは当社でなくライセンス生産先、フランスのスポルタビア社で生産する機体で当社は既に数十機のSF25Cを製造し納品していて、 品質は最高とのことでガッド氏も信頼していると言う。
輸出書類総てと一切の書類はシャイベ社が責任をって用意する。
以上、スポルタビア社とは既に話し合いが付いており、貴方が今日先方に行けるなら連絡して置くと言う。
先方はザールブリュッケン(Saarbucken)からフランス領に入ったメッツ(Mets)近郊約400km強に位置している、途中経過は省くとして、ガッド氏がこれ程の短時間に交渉して呉れた結果に対し、私が今日中に先方に行くのは当り前、ガッド氏に感謝を伝え早速先方へ向うこととした。
ダッハウ町を出てカールスーエ(Karlsruhe)に向かい当地でA35に乗り換えストラスプール(Strasburg)でE25に乗り換えザールブリュッケンで国境を越えフランスに入る、此処からは地場の地図を買い、番地を追ってスポルタビア社を捜す、何回か間違いを重ね森林の中の開けた場所に飛行場を見つけ同社を見つける、しかし、その時は既に日没が迫っていた。
工場と思われる建物の灯は消えており、唯一事務所と思われる棟に電気が点っていた、ノックをして中に入ると大きな男性が出て来て「ウチバヤシさんですね!待っていました」と両手を挙げ迎えてくれる。
ガッドさんからの経緯は正しく理解して呉れており、正す必要もなく具体的な装備品の確認を行う、背の低い目本人に必要な椅子の調整範囲を大きくして欲しい、ダイプ・ブレーキ位置の調整(腕の一番力が入る位置)等日本人独特の特性を説明する。
短い時間ではあったが互いに理解でき嬉しかった、何も果もガッド氏の好意が齎した結果であり感謝・感謝であった。因みに当社は一連のスポルタビアRS-5等の並列座席のモーター・グライダー製造者であり、垣間見た工場の肉容から精度の高い仕事をする会社と想像でき安心する、社長に到着遅延を詫び、好意に感謝し工場を辞する。
ドイツ領に戻り今晩はトリアー(Tier)で一泊する、貿易の仕事でモーゼル・ワイン製造所を捜しに幾たびか訪問した、古都でローマ時代に築かれた城壁が残る、モーゼル川に面した小さな宿に泊まる。
翌日、その儘フランクフルト空港に行き空席があり日本行便に乗り帰国。
翌々日東京着、早速佐藤さんに連絡をとり午後お会いして頂き報告する、佐藤さんから「最初の仕事で幸先良いスタートが出来て良かったですね」と励ましの言葉を頂く。
輸入一号機の耐空検査実施は学生時代からの知り合い大先輩Hさんに依頼する。
最初の仕事としてのマイナー・トラブルはあったが、問題なく航空局の耐空検査も合格し神奈川県航空協会殿引渡しも無事完了する。
一重に関宿滑空場・格納庫の使用に便宜を図って頂いた日本航空協会・スポーツ航空室・佐藤さんご尽力の賜物であった。
名実共に独立してグライダー輸入業務を開始する、貿易業務とは金融業と似て資金繰りが大切な決め手となる、顧客からは注文時に全額支払いは不可で、製造社には工場出荷時には全額支払わねば成らず立替が生じる、大きな利益を上乗せできる仕事なら可能でも、私の理念として始めたこの“需要機を安価に早く”を実践するために多くの人の協力が必要だった。
自社で耐空検査実施も可能となりスタッフも揃った、格納庫・滑空場使用は最後まで佐藤さんにお世話になってしまう。
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顧客からの受注は我々の努力も然る事ながら、佐藤さんのご高名を利用させて頂いた件が最も多い、スポーツ航空室に所属する佐藤さんは全国を飛び廻って居られたが、私は出来る限り許される範囲で佐藤さんの後を付いて歩き、関係者の如き顔をして、先方に最近ドイツ・グライダー情報を提供して興味を持って頂く、そして新規グライダー購入計画を呼び起こす、当時日本のグライダー界は沈滞状態であり、新規輸入機も殆ど無い状態だったので私の話しにも耳を貸して下さったのだろうと思う。
後述になりますが私がグライダー輸入にあたり自身に課した決まりが幾つかあります。
1.出来うる限り低価格で販売する。
2.適材・適所の機材。
3.日本グライダー界に貢献する。(大言壮語ですいません)
目標1低価格の実施
生産社との価格交渉は勿論最少価格で決める(世界中に販売しているので価格は周知の事実)。
部品等の見込み発注は税金が掛からないので多くを同時に運ぶ。
目標2輸送コストの低減
ドイツ・日本間の輸送費(工場から港までも含む)。
40フィート・コンテナー内搭載は複数機とし一機に対するコストを下げる、(グライダーを見込み発注し複数機にする)将来の見込みが見透せなければ失敗する。 {私は幸いに見込み発注の失敗はなかった。最大3機のFRP機を積み込んでコスト1 / 3を実現した}。
船会社は同盟船と非同盟船があり、価格は如何条件で
ほぼ1/3、同盟船とは例えば三井OSK等、非同盟船とはヤンミンやエバー・グリーン等であった。
コンテナーの積み込み場所、費用は少し掛かるがグライダー輸送には必要事項として、汽水線(船体で海水と接する場所)付近に搭載して貰う、コンテナー内温度の変化が少なく赤道付近の通過も押さえられる、日本に来るには2度赤道を通るのでコンテナー温度の管理は重要課題、グライダーに悪影響が出ないように心掛ける。
恥ずかしながら失敗談を一つ披露します。
チェコ国からブラ二ク機3機を輸入した時、陸路シベリヤ鉄道を利用しウラジオストック経由横浜まで運び関宿に到着、コンテナーを開けた途端目に入って来た光景はショックでした、何とコンテナー内は梱包材とグライダーが混在し見るも無残な状態になっていた。
大陸移動距離何千kmを発進・停止を何百回と繰り返し、走っては路線状態最悪で上下を繰り返せば、正に破壊試験の如くであったであろう。
チェコ側の提案で安易に受け入れた私に高い高い代償が請求された訳であった。
しかし、初めの失敗で大きな代償は払うことになったが、より大きな教訓を得たと感じる。
短くも長くもあった十数年の期間に百数十機のグライダーを輸入する仕事が出来たのは多くの人々の好意あるご協力があったからで心から感謝しています。
輸入した一機一機のグライダーには今も思い出がありますがその中でも忘れえぬエピソードを何件かご披露したく思います。
1.シュナイダー社(Rolladen Schneide)
私が訪ねた頃は当社も精彩でLS-4の試作が出来た頃で多忙を極めていた、私は一機のLS-3を注文したく訪問したが、全く取り合ってくれず秘書はシュナイダー氏に会うのは不可能だと言う、当社はフランクフルト近郊エゲルスパッハ(Egelsbach)の住宅街の真ん中に位置し、公害問題にも気に掛かるような場所にあった、民家の庭に機械が置かれ、母屋が工場に成っている様子、事務所らしき場所を訪ねるが秘書の女性が早ロで何か言い事務所に入らない様に手で示す、何時間か庭で待つが何とも反応なし、今日の所は諦めて近くの町で小さなホテルに泊まる。
翌日、朝一番で工場に行って見るが同じ光景で暫くすると昨日の秘書が呆れ顔で現れ、何時来ても同じです、社長はお会いできません。の一点張り、しかし私は此処が目的地で他には行く所が無いのだから今日は梃子でも動かない覚悟で庭の片隅に居座る。
途中、昼頃昼食のためか社長らしき人物が工場から出て来て秘書と一言二言喋って工場を出て行く、私は夢中で後を追い彼に英語で私の話しを聞いて欲しいと頼む、しかし彼は無視し行ってしまう、それを傍で見ていた秘書が流石に私を不憫と思ったか、私の傍に来て“今日はテストが上手く行かず不機嫌なので明日来たらどうですか”と嬉しいことを言ってくれる、勿論、私は同意して明日朝一番に伺うと約束して工場を後にしホテルに戻る、社長本人との約束ではないから確約ではないが、事情を知ってる秘書が言うのだから大丈夫だろう、と自分に言い聞かせべット・イン、グーテン・ナハト!!
勇んでホテルを後に工場と急ぐ、事務所に直行し入ると其処には社長が椅子に座って待っていてくれた。
早速、私は用件のLS-3一機の注文をしたい由話すが社長は変わらぬ姿勢で“日本にグライダーは売らない” と取り付く暇もない、“どうして日本には売らないのですか? ”と聞くと“遠い日本に売るメリットが無いし、グライダー後進国は取引したくない”と言う、私は日本グライダーの歴史や佐藤先生とヒルト博士との友情の話しとヒルト博士が来日して日本国中を飛んだこと、バッサ・クッペ滑空場のこと等、夢中で話し自分もグライダー・マンの端くれであること、そして持参していたライセンスを見せる。
次の瞬間彼の態度は急変する、秘書に向って何か大声で喋る、私は不安になり秘書に何が起こったか聞く、秘書は「貴方がライセンスを取得した年に社長は生まれたんだと言っています」と云い、社長の態度は一変しフレンドリーな態度に変わる、「LS-3を貴方に売りましよう、納期については後日知らせます」とのことであった。
半年後にこの感激のLS-3は日本に到着耐空検査も無事合格して日本の空を飛んだ。
2.アレキサンダー・シュライハー社(Alexander Shleicher GmbH & Co.
当社はグライダー聖地バッサ・クッペ(WasserKuppe) 山の麓の村、木材の産地ポッペンハウゼン(Poppenhausen)にあり、小川が流れる小高い丘の傾斜地に段々畑のように事務所・工場が建つ、山頂には社長の家・カイザー博士の家が建つ様は、美しくグライダー工場に適切な状態に見える。
隣接して軽く傾斜した滑走帯があり、試験飛行は此処で行われるそうだ。
創立はグライダー愛好者初代アレキサンダー・シュライハー氏により起業した、初期のグライダーは木製構造であったため、当地は有力な木材の産地であった当地を材料の入手が容易である理由から選定した、勿論、バッサ・クッペの麓であり、当初は熱病の如く全国から集まるグライダー愛好者と何時でも会え議論でき、次々と新しいグライダーが生まれるのに繋がった。
当初は初代と友人で作ったグライダーも新しい時代に入り新しい設計者を迎える、カイザー博士(Dr. Kaiser) でASKの称号のKはカイザー博士のKであり、Wはバイベル博士(Dr. Waiber)の頭文字である。
現在ではHが付く機体もあるが、私は彼を知りません。
カイザー博士との思い出
博士とは最初に当地を訪問した時、工場の前でウロウロしていた私に言葉を掛けてくれ、工場の中も見せて呉れた親切な人だった、其の後AS社には多くの発注をして何年か経過した頃、工場を訪れた私に博士が設計室に来る様秘書を通じ伝えて来た。
博士の部屋に行くと大きな図面を広げ私に見ろという、 ASK18の三面図であった、鋼管羽布張り構造の機体で Ka8をスマートにした様なホルムであった、私は大好きな格好であるが直ぐ疑問を生じ博士に聞いた、「博士グライダーは既にFRP構造に移り、現に貴社の生産機も ASK13以外はFRPに移行しているのに何でですか?」と聞いた。
博士日く「君、確かにFRP機は流体的に理想に近い姿に作れるが、経験の浅いパイロットが高速機に乗れば、昨今聞く悲しい事故状況に現れている結果だよ。
ドイツだけで無く世界中には経験の浅いパイロットは多数いる、私はそんな人達を安全に上級機に移行する段階の一つに当機を設計した、特に日本の様な状況には適していると思う」と熱弁を揮われた。
日頃、私はグライダー・スポーツの教育課程に疑問を持っていた部分があり、博士の言われる移行過程は慎重にカリキュラムを組む必要を感じていたので、僭越ながら博士の論に大賛成であった。
私は直ちにASK18一機を発注し(この機はM大学航空部に納入された) M大学の機体には胴体横にカイザー博士のサインを頂いた。
其の後、博士はASK23を設計されたが、この時の議論に元ずく設計思想が貫かれていると聞きました。
3.Shempp-Hirth Flugzeugbau GmbH
当社は工業都市ステュットガルト(Stuttgart)近郊のキルヒハイム(Kirchheim)市にある、近辺は当社が設立当時全くの野原だったものが、現代では大都会ステュットガルト市のべット・タウンとして発展し、工場のある場所は高級住宅地の真っ只中という有様、工場は建設当時のままの木造立て、周りの住宅とは懸け離れた風景となっている。
工場周辺は背丈ほどの塀で囲まれ内部は見えない、私が初めて訪ねた時は通勤の人々で溢れる道路に驚きつつ工場に辿り着いたのを思い出す。
アポ無しで行った訳だが秘書の女性は愛想良く「何かお役にたちますか?」と聞いてくれる。
「在社であればDr.ホリカウスにお会いしたい、用件は貴社グライダーの注文についてお話がしたい」と告げる。
10分程待つが先程の秘書が案内しますと、先に立ち 4階に上がる、当階は設計関係らしく大きな机に向って図面を引くスタッフが見える。
上がりの横に応接間があり其処に案内され暫し待っ様に云われる。
暫くの後、 写真でお馴染みのホリカウス(Holighaus)
博士が入室、挨拶の後、私自身の紹介と今日訪問した趣旨を説明し“是非日本に貴社のグライダーを販売させて欲しい、私自身もグライダー・パイロットであり日本でのグライダー界を活性化したい。但し我が国からの今日に至る実績は隠せず、決して良いクライアントでは無いのは理解している、しかし、今までの商社と違い私はグライダー・パイロットの立場で御社と付き合いたい”と強調した。
“自分の計画では御社の機体のみならず、他社機体も輸入しなくてはならず、一挙に注文を増やすが如き虚言は約束しませんが、今後の努力で必ず貴社に納得しと頂けると信じています”と力説する。
ホリカウスCEOも納得して下さる、「貴方の誠意を信じる、そして、定期的に日本のグライダー情報を送って呉れる様に依頼される。
帰り掛けには秘書に言いつけ、私を工場見学させてくれる、当時は「ディスカス」が生産に入ったばかり、ヤーナス機も生産されていた、しかし、創立当時の木造建築をそのまま、あちこちに木柱が立つ工場で超近代的なカーボン構造の新鋭機が生産されている光景は到底信じられなかった
4.グローブ社(GROB-WERKE GmbH Unternehmensbereic und Raumhrt)
当初、私がグライダー・ビジネスを始めた時期には当社はグライダー製造は行っておらず、数年前から他社のライセンス生産を行い、工場・作業員のグライダー製造ノウハウと生産練度の向上を図っていた。
最初に私が当社を訪問した時期には当社オリジナル機、クラブ・アスティアーG102の生産が軌道に乗った時期であり、工場責任者はルーカス氏と云い大変実直な人柄に私は直ぐに親しくなる。彼も私を認めてくれ短期間で親しくなれた、同社はミュンヘン市から西に約90kmに位置する田園地帯の中、工場は滑走路を始め工場のレイアウトもグライダー生産に最適な設計で作られた理想的工場で近隣には人家も無く公害にも無関係と想像できた。
創設者はグローブ氏で本業は大手ホールクス・ワーゲン、ポルシェ社等の生産ラインの設計・設置・補修・メインテナンス等、特に年一度のライン・コンべアー等の交換は大工事で同社売り上げ全体をカバーする程大規模だそうだ、そのオーナー・グローブ氏は熱烈なグライダー・マンで趣味が高じて作るまで来たとの評判。
先に書いたルーカス氏は純粋な設計者で特にFRP技術には長じていて業界でも認められてグローブ社に迎えられたと聞く。
私は当社に多数のオーダーをした、G102,G103スピード・アスティアー、G109等であったが、途中親しくなった息子のグローブ・ジュニアがスピード・アスティアーのテスト中、キヤノピーが破損し不時着大怪我をする、ルーカス氏が退社しグローブ社の経営コンセプトが大方向転換して私が如き小ビジネスは念頭に無くなり、グライダー生産も中止しスパイ機を試作していると聞いた。
其の後の情報でルドルフ・リンドネル社(Fiberglas Technik
R. Lindner GmbH & Co.KG)修理・部品提供を引き継いだと聞いた。
5.シャイベ社(Sheibe Flugzeugbau GmbH)
シャイベ博士が設立した会社、ミュンヘン近郊ダッハウ市に工場がある、FRP機への移行は必ずしも成功していない様子、SF28モーター・グライダーでFRP構造を試みるが成功とは遠かった、鋼管羽布構造時代の成功作ツークフォーゲル等は過去の栄光と感じた。
6.グラッサー・デルク社(DG Flugzeugbau GmbH)
カールスルーエ(Karlsruhe)近郊ブルクサル(Bruchsal)に工場がある、元、トラック車両修理工場後を改修してグライダー工場とした。
グラッサー氏はダルムシュタット工科大(グライダー工学ではドイツー)出身、しかし、彼が世に出た時はグライダーメーカーは彼を必要とせず、止む終えず彼は航空雑誌“エアロ・クーリエ”広告頁に「我は新進気鋭のグライダー・デザイナー、グライダー・メーカーを志しており資本家を募る」と記載し、数多の申し出の中からデルク氏と意気投合して共同経営者となる、しかし、デルク氏も大資本を有する資本家ではなく、開業に足りる資金が用意出来ず、銀行からの融資で賄ったそうだ、どうして潤沢な投資家と組まなかったか、との問いにグラッサー氏は「潤沢な投資家は金に興味が強くグライダーには興味は無く、如何に短期で資金回収をするかの議論しかなく、熱意あるデルク氏と苦労する方を選んだ」と答えていた。
グラッサーのコンセプトは“高性能機を安価で提供する”にあり、設計の段階から構造を簡素化し人件費を極力省く方法を徹底した。
他社と一番の違いはFRP機の主翼・胴体・尾翼等の鋳型を人件費の安価なポーランドへ送り積層する、積層された各部は40フィート・コンテナー内に積み込める最大限積み、DG社に納入させる、コンテナー内の積み込みには梱包費は掛けず単座機では8機程積めるとのこと。
機体の表面仕上げは当社のスペッシャリストが精神込めて磨き上げる。
後発の同社が歴史ある大手メーカーと同等以上の生産台数を記録するにはそれ相応の努力が必要なことを表していて勉強になった。
7.ルドルフ・リンドネル社
(Fiberglas Technik R.Lindner GmbH & Co. KG) 同社は元メッサーシュミット社技師ルドルフ・リンドネル氏により創業された、リンドネル氏はⅯS社で世界最初のFRP機“フェーブス”を設計、自身同機を駆って世界選手権大会に出場しスタンダード級で優勝して居る、その他選手権大会の国内・世界大会で多数優勝した実績を持つ、工場はⅯS社へリコプター製造工場ラウブハイム(Laupheim)近くの丘陵地帯の村バルパーツホーヘン(Walpertshofen)のリンゴ畑の中に建つ、FRP機修理工場として設計・建設された工場だけに理想的でガラス繊維の飛沫等が外に飛散しないように細心の心掛けがされている、周辺から公害等のクレームを受けたことは皆無であるという。
修理グライダーは世界中から依頼があり、裏庭のスペースには各国から来た修理機トレーラーがズラリと並ぶ。
高性能機が容易に所有できる時代になり、急速に増える事故の原因は殆どが"自分の操縦技能より遥かに高い技量を有するグライダーを操縦した結果、起こるべくして起こる悲劇。当然予測の出来た事態に逸早くリンドネル氏はFRP修理専門工場を作ったのだ。
ーつのエピソードを紹介
グライダーをこよなく愛すドイツ人夫妻、休日には共に近くの町営グライダー場でフライトを楽しむ夫妻、フライト中の夫を待つ奥さんは友人の奥さんと木陰で何時ものお喋りを楽しんでいる。
夫はその日ASW20に乗り発生した強力なテルミックを掴み急上昇したらしい、コンタクトが取れなくなった夫を心配し無線で呼ぶが返事なし、関係者総てに協力を要請し捜査が開始されるが返答はない
2時間程経過した時スタート地点から50km離れた畑の中にグライダーが墜落しているのが発見され連絡がくる。
機体は相当破損しているがパイロットの損傷は殆ど見受けられなかったというが勿論亡くなられていた。
その日パイロットは高高度のフライトは考えて居らず、酸素吸入の用意はしていなかった。
憶測では急激な上昇気流に入ってしまい高空に吹き上げられ、酸素不足で気を失い上空から緩旋回を続け地面に墜落したものと思われる、と言うのは機体の損傷が激突した損傷には見えず“フワット”と地面に置かれた如くの形状であったらしい。
夫人はこの思い出の機体を廃棄してしまうのは悔やまれ復元を考えリンドネル社を訪ねる。
趣旨に感動したリンドネル氏は快く復元修理を引き受け、3 ヶ月を要して完全修復を成し遂げた、其の後ドイツ連邦航空局の耐空検査も合格し関係者一同に披露された。
その機体は今正にメーカーの工場を出て来た新品と判別できぬ程完璧であったという。
この機体は其の後数回フライトし、市営グライダー場格納庫天井に吊るされ、現在でもメンバーにより年数回のフライトを夫人も参加して行われていると聞いた。
私が当社と知り合ったのは、中央大学に納入したグローブ式 “スピード・アスティアー”が破損し耐空検査員佐藤さんのアドバイスで、グローブ社に破損状態の詳細を送り相談した結果、修理可能と言ってくる、但し、主コンポーネントの破損もあるのでグロープ社から派遣する技術者に修理を委ねるのが得策と云ってくる。
私も同感なれど費用の点で相当額に成ると思いルーカス氏に聞くと渡航費用含めた総ての金額が即刻示された、余りの低額なので再度問い合わせるが同じ額であった。
大学・保険会社とも協議するが私に一任するとのこと、佐藤さんとも相談しグロープ社に修理を依頼する。
確か数日後には二人のドイツ人技師が到着、早速、中央大学八王子キャンパスに案内する。
二人の技師は親子でルドルフ・リンドネル氏と長男ヘルムート君であった。
佐藤さん立会いで修理方法等について打合せ実施に掛かる、親子はキャンパス近くのホテルに滞在して貰う。
三日程の短時間で修理は完成した、出来映えは完全に近く修理箇所を捜せない程であった。
関宿滑空場に運び、佐藤さん立会いで試験飛行・耐空検査と進み、無事検査合格する、即刻、大学に引渡して終了した。リンドネル親子には“礼を尽くし”とは云っても大した持て成しもせず帰国させて仕舞った。
後年、ドイツに行く機会が増え、行く度にリンドネル氏宅に宿泊させて頂いた、休日には私を伴い周辺のグライダー場へ行き種々な人物に紹介して呉れた、既に面識ある人物もいたが、例えばアレキサンダー氏・バイベル氏・ホリカウス氏等ドイツ・グライダー界の重鎮を紹介してくれた、改めてリンドネル氏の人物像を理解し、私の今日に至る非礼に対し自責の念に駆られた。
しかし、残念ながらその氏も2008年帰らぬ人となった。
目標3 適材適所
私は古い人間グライダー教育は旧軍人の教官から教わった人間だが、グライダーについては自身の信念は今も変わっていない、かって、私が最初に入った学生団体では、グライダー訓練は精神鍛錬の一環として位置付けられていた、理事長以下教官の皆様には大変お世話になり、団体に入り訓練もさせて頂いたが、半年も経たずして違和感を感じていたが、団体の趣旨と後援者との間で基本的重大な差異が生じ決裂するに至る。
後援者の読売新聞社・文部省等は青少年の航空知識普及の一環として、グライダーを通じスポーツ航空の普及に貢献する、そして航空思想・操縦技術の向上に役立てる。
一方、団体の趣旨はグライダーはあくまで強靭な精神と身体を作る為の道具である、と高らかに宣言していた。
長い時間を掛け論議は続いたが、結局話し合いは付かず決裂となり、残念ながら袂を分かっことになる。
私にも態度を決する時が来て、私の信念であるスポーツ航空たるグライダーを選定し教官・理事長にお伝えする、S教官は笑って励ましてくれた。(忘れえぬ思い出)
長い時間グライダー輸入業務をさせて頂き楽しい年月を経る中で悲しい出来事もあった。
某大学納入の全金属製高性能機事故
学生委員がその機材が購入したい由打ち合わせを行う、既に私も相当数の機体を輸入し、それ相当の機体の特性を把握した頃であったので、その問い合わせ機体の特徴は掴んでいた、大学活動の3年間( 4年生になると部活はせず、卒業に向け準備期間と成るため実質3年間となる)で経験するグライダー性能には自ずから上限がある〈複座式教官同乗機は別〉この時期世界中で機体の変換期が来て、鋼管羽布構造の機体からFRP(プラスチック製又はグラスファイバー製)にと飛躍的に高性能化した時期で機体購入計画には慎重を期す必要があった。
大学航空部の如く購入計画には先輩の意向が大きく左右する、そんな背景がある購入計画での相談であったので、慎重にも慎重を期して臨んだ。
しかし、担当学生の申し出はR国全金属製高性能機“IS-29”と言う。
私は外国での当機の事故事例等を詳細に説明し、特に低速時の安定性(失速性能が不安定)等を粒さに説明するが、本人はこの機体を購入するのが自分の務めだと言い耳を貸さない、知人の先輩などにも相談するが“商売に徹して輸入すれば”と皆さんは言う。
性能的には優れていてそれ相応の経験あるパイロットには良い機体なのだろう。
私はR国に一機の“IS-29”を発注する、比較的短期間で到着する、書類も完備しており機体も完成された美しい機体で一安心する。
関宿滑空場での試験飛行も順調で、耐空検査は佐藤さんにより終了する、早速、大学航空部部員が大勢来て引渡しを行った。
グライダーでは比較的数少ない全金属製だが、B-4,ブラ二ク等に劣らぬ綺麗な外観であった、只、私がドイツで聞いた評判での操縦性については、少々敏感で扱い難いとの風評は間違いないと感じた。
残念ながら、この機体は学生が操縦し練習中に失速墜落し、尊い若き学生を失ってしまった。
私は僭越なのは充分自身分かっているが、以後も学生からの機体購入計画の打合せでは、必ず計画にあった機体性能・取り扱い良悪を重点に十分検討を促した。
Ka6・Ka8等学生活動期間でも充分安全に乗れて楽しめる機体が日本には必要と考え、私は期間中多くのKa8を見込み輸入し、現地での購入価格を切る価格で販売した。
Ka8は既に生産は中止して終った機体で新機はない、それでドイツ唯一のオーバーホール会社ハンス・アイシェルズドルファー(Hans Eichelsdorfer)と契約し完全オーバーホール機のみ輸入した、品質は大変高度な水準だと評価されていて世界中に輸出されていた。
ハンス・アイシェノレズドノレファー社
同名の創設者が時代の要望に応え、事故機の修理を行ったのが始まりで、以後総ての航空機の修理改造を行っている。
私が通っていた頃はGFK・鋼管羽布・木製モノコック総ての修理と、古典機の復元も製作していた(コンドル機)。
工場は古都バンベルグ(Bamberg)に所在する、私が最初に尋ねた時期は東西ドイツ分断中であったので、東に3キロ行くと東ドイツであった為、米軍が駐留しており緊迫した雰囲気があった時期であった。
最盛期には当社技術者の訪日も実現し、関宿で修理が行われた。
私がグライダー・ビジスを始めた頃、従来の輸入商社はグライダー部品の手当てをドイツのフリーベ社に委ねていた、私も始めは当社をマンハイム空港(Mannheim Flughafen)に訪ね部品の手当てを依頼していた。
マンハイムは当時連合軍総司令部が置かれており、進駐軍の中心地として盛況であり情報も集まる場所であった。
社名と同名のフリーベ氏は元戦闘機M-109パイロット,戦後多くの航空関係者と同じく、一早く許可されたグライダー関係の仕事に就いた。
そんな関係のフリーベ氏より“急ぎ会いたい”との一報があり、急ぎ訪独マンハイムの同社を訪れる。
用件は「ある有名人が所有するStシーラスを買いませんか」と言う、「誰が所有する機体で状態は如何ですか?」と聞くと、暫し考えてから「打林さんを信用して話します、所有者はハンナ・ライヒ(Hanna Richt)です、コンデションは良好です」
当時、ハンナさんはドイツに住まず、ドイツ・航空界とは距離を置いた状態であった、と言うのも、戦後再会されたグライダー世界選手権大会ポーランドに於いて、ドイツ国内大会で選考されたハンナさんも参加すべく、ワルシャワ空港でチェック時ハンナさんは入国を拒否された、当然団長以下チーム全員が抗議して呉れると思っていたハンナさんは、団長以下全員が無言のまま入国してしまうのを目前にして、ドイツ・チームからの離別を決意したそうで、居所もドイツの邸宅を払い表舞台から去って行ったそうです。
フリーベ氏とは戦中・戦後の苦境時も共にし数少ない友人の一人と聞いた。
ハンナさんは戦後一時戦犯に問われ、ユダヤ諜報機関からも身辺に危険を察し、以後身を隠した生活を送っているそうで、私が「私個人的にも尊敬するハンナさんにお会いしたい」と告げるとフリーベ氏は言下に拒否された、しかし、私の重ねての懇願にフリーベ氏も「ハンナさんに聞いてみます」と折れてくれ「数日待って下さい返事をします、この周辺のホテルで待機して居て下さい電話します」と言う、私は彼にハイデルベルグ(Heiderberg)のホテル名を知らせ別れる。
ハイデルベルグとマンハイムはブルー6アウト・バーンを挟んで10km程しか離れて居らず、連絡を受けてから3 0分程で着ける至近距離にある。
次の日朝6時にフリーベ氏よりTelが入る「直ぐ事務所に来てくれ」と言う、直ちにホテルをチェック・アウトしマンハイムに向かう、空港入り口でフリーベ氏が待っていて「貴方の車は駐車場に置いて私の車に乗って下さい」と言う、彼の言う通りにして彼の車に乗る。
車は直ちにブルー6に乗りバーセル(Basel)方面に向う、私は少々不安になって「何処に行くのですか?」と聞くと「私にも分からないのです、ハンナから待ち合わせ場所を電話してくるのでこのまま進みます」と言い、バーテン・バーテン (Bade Bade )を過ぎた時電話が鳴り“次のサービス・エリアに入りレスト・ハウスのコーヒー舘で待つ”と言ってきた。
コーヒー舘に入る、何と写真でしか見たことがないが憧れのキャプテン・ハンナが其処に居た、白髪で上品な婦人がニコニコと笑いながら私に近ずき“グーテン・ターク”後はフリーべ氏とドイツ語で5分程話し、フリーベ氏が「日向さん・小田さんは元気ですか?とハンナが聞いています」と言う、私は吃驚して「日向・小田さんをご存知ですか?」と聞く、ハンナさん「日向・小田さんとは世界選手権大会で何度かお会いして存じています」と言う、私「日向さん、小田さん共にお元気です、私は学生時代からお二人には大変お世話になっている者です、最近もお会いして元気にされていました」と答える。
10分も経たぬのに電話が鳴り、ハンナさんは急ぎ車に乗り急発進でアウト・バーンに入り去って行った。
後に残された二人は暫し“蛻の殻状態”漸く我に返り、フリーベ氏「機体はスイスに有り、国籍もスイス(HB)発航回数は30回、飛行時間90時間、事故無しハンナさん個人所有とのことで耐空証明書・輸出書類総て揃うとのことで、早急の結論が必要」とのことであった。
私は今日の午後便で帰国し急ぎ結論を出すが、今日から3日の猶予を貰いたいと申し入れる、フリーベ氏もそれで0Kでしょうとして別れる、急ぎフランクフルト空港に戻り午後の便を確保する、時差で日本は未だ就眠時間なので連絡はとれず、急ぐ気持ちで成田行きに搭乗、翌日東京着、早速数箇所に電話をするが私一番の可能性は広島の小田勇氏であった、しかし、不運にも小田さん不在で連絡つかず、虚しく時間ばかり過ぎて行き、その日は遂に結論は出ず。
翌日、午後に漸く小田さんと連絡が付き用件を伝える、勿論、小田さんは私と全く同じ価値観をお持ちで“即刻、購入の意志を先方に伝える様に指示受ける”
私はその日の内にフリーベ氏にTelするも連絡が取れたのは二日後でありフリーベ氏からの声は最悪の答えであった。私は自分の不甲斐なさに打ちのめされる、何故先ずは自分で手に入れ後は誰に譲るにしても、この掛替えの無い“ハンナ St・シーラス”を手に入れるのが先決と気が付かなかったのか、氏によれば昨日の内にスイス人が即決で購入を決め、即決済をしたのでハンナさんも断る術なく引き渡しに応じたとのことであった。
私の後悔、何で話が来た時取り合えず手金をして交渉権利を留保しておかなかったのか?“後の後悔先に立たず”であった。
自分の慰め「神様:憧れのハンナ・ライヒに会え、自筆の手紙も頂き、会う場面ではドラマチックな体験までさせて頂き、一生涯忘れえぬ思い出となりました。
フリーベ氏とはこのことが原因では無いが、足が遠くなりお付き合いは自然消滅した、勿論、私の理念であった良い物を安く・早くを実践し、グライダー部品も総て製造者と直接交渉し取引をした結果でもあった。
忘れ得ぬ思い出
ハンス・ヨハム・オッホ(Hans Joachim Och)氏
ハンス・アイシェルズドルファー社から購入した[ Ka8 ]オーバー・ホール機の旧オーナー
氏は数年前までアレキサンダー社の工場長を勤めていた、その当時会社の同意を得て、自宅地下室でこのKa8を製作した(其の後親しくなった氏の自宅に宿泊して確認した)其の後、氏は転職し私がお会いした時はドイツ連邦航空局検査官を担当され、他方オーリングハウゼン・グライダー学校 (Segelflugschule Oerlinghausen e.V.)教官も勤められていた。
購入した[Ka8]はコックピット周りがFRPで整形され、翼端も少し改造されており、通常の[Ka8]とは少々異なり性能が良くなっていたと評価され、宇都宮に納入された。
オッホ氏とはその後昵懇となり、数十年間家族同然の付き合いをさせて頂き、特にグライダー関係者を紹介してくれたのは、ドイツでのグライダー・ビジネス推進に大きく役立った。後日、来日され佐藤さんにも紹介させて頂き、関宿滑空場にも行きフライトもされた、フライト後の感想として不時着地が無いのに驚いていた
シェンプ・ヒルト社ホリグハウス(Holighaus)博士初対面時から大変好意ある態度で接してくれた、会う度に親しくなり食事も共にした事は忘れえぬ思い出で、2006年に山岳フライト中山に接触帰らぬ人となる、彼は優秀な設計者であると共に優秀な経営者として、一流ドイツ経済雑誌に数回優秀経営者として取り上げられ、広くドイツ中に名を知られていた。
日本に於いてのグライダー販売は順調に推移し、年間約15 機程度の実績を挙げることが出来た、此れはひとえに佐藤さんのご好意と友人達の協力の賜物で実現できたものと、ドイツ・グライダー界の知人達の後援があってこその結果と感謝しています。
最後に自身の不甲斐なさで目的半ばでストールして終ったことには無責任の謗りは免れません、特に自身では最重要課題として心に決めていた後進を育てる大儀、世界選手権大会に出場し成績を残せる選手を私達の手で育てる件は夢で終らせて終ったことが悔やまれてなりません。
気が付けばグライダー輸入実績150機以上を達することが出来たのは旧タイプグライダーと化学繊維使用の新グライダー交換時期が重なり、停滞していた日本グライダー界にも遅まきながら新風が吹き込む切っ掛けとなったと思います。何も専門知識が無かったから“怖さ知らず”で出来たのと、協力者の佐藤さん初め皆さんの惜しみないご好意があって実現出来たものと今でも感謝に堪えません。