学連の思い出(玉川から栗橋へ)

学連との出会いは、昭和43年に東海大相模の入学が決まり、さてどのクラブに入ろうか? 当時は16歳から取る事が出来る軽自動車の免許証があった。3月生まれの私は、翌年の高校1年の終わりには、受験年齢に達するので自動車部か、 (昭和43年12月末で軽自動車免許は無くなり、普通免許取得年齢の18歳までお預けとなる) 中学まで模型飛行機をやっていたので、航空同好会(模型飛行機等を飛ばす位に思っていた、)の2択で検討していた。

航空同好会はグライダーで空を飛ぶと聞き、即決でこちらに入会した。顧問は生物の井樽先生、副担当は地学の門田先生であった。週末になると井樽先生は、愛車のパブリカで玉川に乗り付けて教官に変身。当時教官は五島さん、佐藤さん、井樽さん、坂本さん。それ以外に後席に、内田さん、長島さんに乗ってもらったように記憶している。H22の場合沈下が大きく、サーマルをとらえるチャンスは限られている。しかし内田さんに乗ってもらうと、下から上がってくる匂い・塵・あるいは本能なのか、良くサーマルの方向に案内してもらった。

当時の学校は土曜日が半ドンで、午後から先輩につれられて玉川格納庫へ。翌日の飛行に備え、整備に向かうのが日課であった。二子玉川駅から国道246を横断し、畑とかやぶき屋根の家もある裏通りに入る。のどかな小道を246と平行に多摩川の方向へ進むと、コンクリート塀が切れている場所に突き当たる。塀の向こうは小川で、そこに掛かる木製の橋を渡ると、左手に吹き流しと2階建ての事務所。右手にヘリポートと格納庫が見える。その格納庫の右脇を迂回するように、小川との間にある小道を進むと、二回り位小さな、朽ちかけた格納庫があった。そこが学連の格納庫で、中に入ると埃と油の匂いに満ちていた。格納庫にはH22が2機、H23Aが1機収納されていた。後に解ったのですが、機体を移動する際、自在キャスターが付いたドーリーに乗せて移動させる事により、パズルのように機体を収納することが出来ていた。更に格納庫左手の仕切られた部分に車庫があり、トレーラー式ウインチが止められ、更にその奥に畳敷きの小部屋があった。機付を中心に各機体の整備、自動車部長を中心にウインチの整備が行われていた。まず各先輩方への挨拶、その後H22の操縦席に乗せてもらった。他校の先輩に、右旋回の操作をしてみろと言われ、模型飛行機をやっていたので、得意になり右のフットペダルを踏み込み、操縦桿を左に倒し、大笑いされてしまった。その操作は、後で知ることになる、サイドスリップかウイングローの操作であった。

ヘリコプターが納められている、手前の格納庫も案内してもらった。カバーを掛けられ、大切に保管されているH32。埃だらけの真っ赤なベルクファルケ、オープンタイプのグライダー用トレーラーが、ゆったりとたたずんでいた。この格納庫の小川側には、小物の製作及び修理などが行える工作室があって、坂本教官がよくロウ付け作業を行っていた。

翌日の訓練は、朝8時までに格納庫に集合。機体を格納庫から出し、キャノピー・翼を拭き上げ各部を点検、滑走路まで運ぶ。手前の格納庫脇を移動する時は、翼端が格納庫ギリギリを通過するので、翼端保持者は翼端を避け、少し内側の前縁側で操作する。当時のグライダーはスパンが短いので、片翼は川の上であるが、ギリギリで通過する事が出来た。土手に作られた誘導路も飛行機用なので、翼端保持者は誘導路から外れ、しゃがみ込んだり背伸びしたり、翼端より少し内側を持ったりの移動であった。ピスト、ウインチ及び機体をセットしたら、ピスト前に全員集合して整列。訓練前の挨拶「敬礼」。この挨拶は昼食前後・撤収時と計4回行われていた。当時は軍隊のなごりか規律は厳しく、遅刻したら滑走路を走って3往復、翼端を落としたり、飛ぶ機体を見ていなかったら腕立て10回とかがあったと思う。

いよいよ初飛行ピストの教官に敬礼「〇〇登場します」と報告。ウエイトを持ち、機体に駆け寄る(当時私は身長も低く体重も軽かった)。風防を開け、ウエイトを座席とクッションの間に入れ乗り込む。シートベルトを装着し、後席の教官に準備出来た事を報告。左右の曳航索装着者から引けと号令が掛かる (H22のフックは機体の両側にそれぞれあった)。リリースノブを引く、装着者から「放せ」の号令でノブを放す。前方、左右に誰もいないことを確認し、準備よしと翼端者に合図。機体が水平に起こされ、旗振りが赤と白の旗を水平に上げた後、右手に持つ白旗を大きく回転させる。600m先にあるウインチのⅤ8 約6000㏄のエンジンが始動し、轟音が聞こえてくる。曳航索がズルズルと引かれた後、ぴんと張る「出発」、旗振りが右手に持つ白旗を振り下ろす。背もたれに体が押し付けられ、丁度足の下あたりにあるスキッドが浮き、一輪車状態で数メートル走ると、ふわりと浮き上がる。離陸後すぐに機首上げで、前方は空だけに。しばらく機内にタイヤの回る音と風切り音が響いている。ウインチ上空付近で、曳航索の引っ張り力が急に落ちる。機体を滑空姿勢にして、離脱と言いながら、リリースノブを引く。前方の視界が開ける。左90度旋回。左足を踏み込み、操縦桿も左に倒す。機体が傾きながら旋回運動を始める。それ以上バンクが深くならないよう、操縦桿を当てる。直ぐに第2旋回。グライダーは滑走路対岸の土手の上。左下方に滑走路が見える。リトリブカーが曳航索を出発地点に戻すために、走っているのが見える。前方に二子橋が近づいてくる。左前方にある、コンクリート造りの富士館会館を目標に、第3旋回。滑走路手前に自動車教習所が見える。いよいよ第4旋回。スポイラーを使いながら高度を下げる。下がりきらないのでサイドスリップ。左側面の風防からきしみ音とブオーという風切り音がする。地面が近づいて来るので、機首を進行方向に合わせる。フレアーを掛け、トンと接地。すぐにスキッドがこすれ機体は停止。横を向くと仲間が翼端を保持している。

夏になると日本高等学校滑空選手権大会が自衛の三重県明野基地で開催される。これに参加するため、当時電気機関車にけん引されていく夜行の東海道線に乗る。当時の客車にはクーラーは無く、高い天井に首振り扇風機と、ドーム型カバーの周りに、換気フィンが付いた照明が付いている。座席はボックスシートで、背もたれは垂直で、木製の枠に緑色クッションがついたものであった。車内はすいているため、2人掛けシートを1人で使用出来るが、夜行列車はかなりくたびれた。名古屋からは近鉄に乗り換え明野駅下車。陸上自衛隊明野基地に向かう。宿舎、食事は自衛隊の施設を利用させてもらい快適であった。特にカレーライスは旨かった。大会は場周飛行のダウンウインドウ部に、30度バンクの8の字旋回を入れ、指定着陸点までをいかに正確に、綺麗に飛ぶかを競うものであった。参加校は明野高校、宇治山田高校、慶應義塾、東海大相模、日大藤沢の5校。昭和43年、第6回は小島(3) 本山(3) 森尻(2) 田所(2) 小方(1) 十々木(1)で参加し、団体2位、個人5位(小島)であった。昭和44年、第7回は森尻(3) 田所(3) 渡辺(3) 石井(2) 十々木(2)で参加し、団体優勝、個人優勝(十々木)であったが、丁度この年東海大相模は、現在の原監督の父が監督で、甲子園初優勝を飾った。その為、航空同好会の影は薄かった。

昭和43年夏、さらに日大藤沢高校のグランドを使って、複座プライマリーによる合宿に参加した。狭い場所と皆グライダー搭乗経験者なので、単座による訓練となった。グランド外れの高台にセットされた機体に登場し、肩腰をベルト固定する。機体には車輪がないため、離陸し易い様、半割の竹を並べた上にセットされている。機体スキッド後部から出ているワイヤーを固定フックに掛ける。スキッド先端にあるフックに、曳航用ゴム索を引っ掛ける。「準備よし」の掛け声で、翼端保持者が機体を水平に保持する。曳航索は直径3㎝程度の、袋網の布の中に、ゴム動力飛行機に使う位のゴムを束ねたものであった。この曳航索を、皆で機体から見てVの字になるよう掛け声を掛けながら歩いて引いていく。出発担当者がゴムの張りを見ながら、固定フックをリリースする。機体は一気に加速し、3m位の高さまで上昇し、2~30m位滑空する。日大藤沢の一番小さい生徒の順番が来た。高く上げてやろうと裏で申し合わせ、リリースと同時に皆で曳航索を持って走った。機体は5mを優に超えるほど上昇、搭乗者は気が動転して、下げ舵のタイミングが遅れ、失速して先端からグランドに墜落。搭乗者は無傷であったが、機体は大破してしまった (もったいない)。

昭和44年玉川飛行場は、美濃部都政の要求で公園になる事が決まり、栗橋に移転することが決まった。栗橋には格納庫等が無く、トレーラーで移動し機体を組立てる事になり、基本合宿形式となった。合宿所は大利根住民センターを借用し行われた。H22は張線張りの作業があり、組立分解に多くの時間を要し、複座ソアラーの購入が望まれた。玉川と違い、不足した物を格納庫にすぐに取りに行くことが出来ず、不便なことも多かった。中でも一番困ったのはトイレで、小はともかく大をするにあたり、スコップで穴を掘らないと、糞と離れられず、移動しながらしないといけないことを勉強しました (役に立つことは少ないですが) 。同じ糞の話で恐縮ですが、機体繋留作業時に転んで手をつくと、ヌルッという粘土状の感触、よく見ると牛の糞。牛の糞はよく消化されていて、ほとんどにおいがしなかった。ある時滑空場で地元の年寄が話しかけてきたが、話の半分も理解できないほど方言がきつかった。今は無くなってしまったと思いますが、当時胴が長い猫ぐらいの動物に遭遇。かわいい目をしており、イタチだとわかり捕まえようとしたところ噛みつかれた上、最後っ屁をされた。これがなんともたとえようのない生臭い臭い、風呂に入るまで消えなかった。当初鉄橋と反対側の西側には、排水用の巾1m程の溝があり、その西側は放牧地で滑走路は800m程度しか取れなかった。滑空場を広く使う目的と、雑草が伸び過ぎ視界が悪いため、鉄橋側を野焼していた時、強い風により思った以上に火が広がり、東武鉄道の枕木2本を焦がしてしまった事件があった。現在では西側の排水路も無くなり、1500mの滑空場と、軽量のナイロン索により、飛行機曳航に近い高度が取れるようになった。

最後にこのような貴重な経験が出来たのは、東海相模に、井樽先生が航空同好会を作ってくれたおかげであり、大変感謝しております。また後輩から多くの航空従事者が育ってくれたことを、うれしく思います。

十々木一仁