大利根滑空場(栗橋)の初代学生委員長として

 まず、当時、私に、委員長が廻ってくるとは考えていなく、拝命は青天の霹靂だった。というのは、当時、暗黙の了解で、4年生は、就職活動等がある為、委員長に指名されないことになっていたので、まさか、指名されるとは思わず、3年生の年末の合宿が玉川で終わり、北海道に帰省していると、亡くなった長島全日空機長より、北海道まで電話があり、OB会で次期委員長に決まったので、引き受けてほしいと連絡があり、就職等のこともあり、父より承諾を取り付け、就任した。
 当時の、学生航空連盟の読売側の担当者は、機報部の飛行機班が担当されていましたが、読売本社無電室のデスクの村中巽さんが、滑空場移転担当の責任者に指名された。憶測ですが、交渉力、事務能力を考えての起用と考える。それは、昭和14年に作られた玉川飛行場が滑走路の南側に国道246の橋が架かる事になり閉鎖することになり、飛行機部門は羽田に、滑空機部門は新しい滑空場を何がなんでも確保したい読売側の熱意を感じた。
まず、当時の建設省利根川上流事務所に河川敷使用許可の挨拶に行きましたら、担当者が、こんなに早く、占有許可(昭和44年2月24日)は出ませんと言われたのを、憶えてる。そして、許可後、ちょうど1ヶ月で、開場式を迎える。これは、当時、小林與三次副社長(過去の経歴、正力松太郎氏の嫁婿)のお力添えあったからと、村中さんと現場担当者が話していた。
 又、多分、今は在るかどうか判りませんが、木造2階建て和室4部屋の住民センターを村の役場に赴き、合宿宿舎として使用したいと交渉を助役さんにお願いし、許可を得た。学生航空連盟が借りた河川敷は、昭和22年9月関東平野に大被害をもたらしたキャサリン台風で堤防が決壊した場所だと、OB達より移転前より聞いていたので、村中さんと助役さんが、いろいろ話す中、キャサリン台風災害の村の復興の為、大宮地方競馬場で、大利根村復興特別記念レースが、毎年開催され、そのレースの収益金が、復興資金として入るので、村の財政は、豊かだと言っていました。
その他、東武線鉄橋側の土手から河川敷への進入路に一番近い農家に行き、田んぼの一角を機材置き場として、将来は、格納庫建設の為借りたが、工事費がかかる為、しばらく使われず、その後、どう使用されたか判らない。地代は読売新聞社が支払っていたと記憶しています。当時は、住民センターの庭が広かったので駐車場としてトレーラー等を置かせてもらっていました。
交渉に同行し、私が学生の身分で交渉しても、埒が明かないし、できないことが良く解ったし、読売新聞の金看板と組織力の凄さを認識させられた。


 大利根滑空場オープン当時の、一番の思い出は、開場式での航空協会より借りた三田式改3型改1の一番飛行、前席-佐藤教官、後席-五島教官、2番飛行は、前席-佐藤教官、後席-小林副社長の翼端を担当したことだ。今、考えると、読売新聞の副社長が、グライダーに乗ること事態考えられない。取り巻きが、危険なので搭乗させないのでないかと想像する。佐藤教官が、氏家滑空場でもお乗せしたと聞き、かなりの飛行機、グライダー好きと拝察します。


 又、新しい練習機三田式改3型改1の購入をキャンセルしASK-13を導入するにあたり、読売側に申請すると、読売新聞社所有のグライダーは、12機あり、小林副社長に、こんなにあるのに、まだ、グライダーが必要かと言われ、調べてみると、その内、8機が抹消登録されてなく、在籍していました。その当時は、読売の組織改革で、学生航空連盟の担当は、機報部より文化事業部になり、その担当の藤田次長より、抹消登録していない件、副社長に謝罪をしてほしいと請われ、何で私が謝罪をと思い、緊張して広い重厚な副社長室に出向き、謝罪を申し上げたら、さすが、元建設省事務次官、読売副社長、⌈君の責任ではない、先輩たちが抹消登録をしなかった為だ。⌋と言って頂き、ホットした記憶が残っている。又、いろいろ機材等の便宜、移転交渉にあたり、機報部の車をお貸し頂き、便宜をはっかって頂いた機報部の航空整備士笹田修治さんは、大変お世話になりましたが、残念ながら、私が卒業した昭和45年7月26日に、槍ヶ岳の夏山登山を、ヘリのヒューズ500で取材中の事故で、西端機長と共に48歳で亡くなれました。お二人のご冥福を心からお祈りいたします。


 最後になりますが、村中さんと、交渉事の移動中、これから社会で生きていく為の助言をいろいろ頂きましたが、その中でも、戦中、戦後直後の大変な時期を振り返り⌈須賀君、衣食足りて、礼節を知るとは、本当に言葉通りだ⌋と、しみじじみと仰っていました事を、今のことのように思い出します。この言葉を踏まえ、私は、衣食足りて、礼節を知って安全飛行できるのかなと考えております。